◎歴史

1522年(室町時代)上野国碓氷郡秋間(現群馬県安中市秋間)の桂昌寺第三世夫山総田が当宗派布教の為、信濃路を遊行したとき、当山開基屋代越中守政国に寄遇し総田と参禅問答をし、いたく共鳴するところあり、この縁により一重山山麓の埴科郡小島村(現長野県更埴市小島)の地に伽藍建立をし総田を開山、政国を開基とし、日本曹洞宗の禅寺を開いた。
山号は伽藍建立の地が琵琶島であり、有明山を背に姥捨山に対していたことから「明月山」とし政国が祖父満照にちなんで「満照寺」とつけた。なお政国は村上氏(現長野県埴科郡坂城町)の老職にあり屋代城主であったことから丸上の紋を授かった。
総田は日本曹洞宗の始祖である永平道元から法脈で十五代にあたり、道元から四代の瑩山は元享元(1321)年能登国に總持寺を開創(明治44年現神奈川県鶴見区に移東)したが、六代の通幻寂霊は總持寺山内に妙高庵(五院のひとつ)を開き、曹洞宗全国伝播の基盤をつくった。
寂霊の弟子であった天真自性は越前国に妙高庵直末の慈眼寺を開創し道元より十二代の慈眼寺六世の在室長端は、上野国(後に常陸国に移転)に金竜寺を開創、関東における布教活動の一つの拠点を確立し金竜寺二世天隠玄鎖によって桂昌寺が開創され同寺二世の機曇英鑑が総田の師となったのである。
それらから見て、満照寺の系譜をたどると、法脈上は「通幻派」であり「天真派」でもあるが、伽藍法は「慈眼寺系」であり「金竜系」であり「桂昌寺系」であるといえる。
満照寺二世には勅特使妙続禅師こと華岳玄機大和尚が、三世には然室玄廓大和尚がつき、開山、二世・三世までは本寺住職が兼務したが四世静山永波から満照寺独自の住職になった。
ところで開山総田が示寂したときには、檀那の屋代政国は武田信玄の武将となっていたが、その後、後継者はこの地を去った。
近世になり小島村の領主は幕府直轄地をまじえてしばしば更迭したが、宝永元(1704)年からは江戸幕府の御天領としておちつき、六世保巌総天が満照寺の基盤を固め、中興といわれた。
寺領は広く一重山一帯に渡り、平坦部でも現在の小字「寺前」「新大門上」「新大門下」は寺領にちなんだ地名であり現在の「しなの鉄道屋代駅」の敷地も含まれていた。
現在の満照寺からの系譜を載せると、直末五ヶ寺、孫末以下十一ヶ寺、計十六ヶ寺の小本寺と言われている。

◎逸話
満照寺の赤椀
満照寺は御天領であったことから、時の加賀の前田公も参勤交代のおり、当山へ立ち寄ることもしばしば、江戸中期から後期にかけての逸話である。
前田公も御天領には馬・駕籠に乗っては入られぬ、御天領域は徒歩にて夏の暑いさなか歩かれた、ようやくたどり着いた満照寺にて一休み、時の和尚はなにを血迷ったか百万石の殿様に「夏の炬燵」をさしあげた、どうぞ殿様、この炬燵にお入り下さい。
御天領和尚の言うこと聞かねばならぬと、半信半疑、足を炬燵に差し入れた、ところが昔の炬燵は堀炬燵、なんと涼しく長旅の足の疲れも吹き飛んだ、布団を捲り灰を覗けば真っ赤な炎が見えている、よくよく見ると、そこには朱塗りのお椀が伏せてあり、頓知のきいたこの計らいに偉く御満悦にて江戸に向かわれた。その計らいは、江戸にて広まり、信州信濃の満照寺、「ぬるい炬燵は満照寺」として世間に紹介された。
今も当山所蔵の「明日山満照寺之景」には炬燵岩なる地名が書かれている。

佐久間象山の大砲
偉人、佐久間象山は嘉永四(1851)年、生萱村より大砲の試射を行った、なんと玉は飛び過ぎ、田を越え、山を越え、御天領の満照寺山麓に着弾、時の和尚と名主は、一大事件とばかり坂城(寝ずみ)の(現ねずみ)代官所へ持ち込んだ、偉人象山先生もこのときばかりは驚いたことは隠せない。

その他 寺宝
本尊 宝冠釈迦如来 
・仏祖命脈証契 

・三尊十六弟子絹地彩画 
・十六羅漢紙地彩画 
・達磨大師像紙地墨画 
・高祖曼陀羅御一代四幅 
・仏祖誕生仏・涅槃仏二幅 
・大雄殿号額 
・信濃之国神社系譜 
・掛け軸・書状 
冠をかぶった釈迦像
機曇英鑑より総田が授かった釈迦無尼仏より続く血脈であり、
耳からとった血で綿々と書かれている。
筆者不明
筆者不明
狩野永琳
臨江斎
臨江斎
隠元 日本黄檗宗開祖
作者不明
多数

釈迦牟尼佛座像

(満照寺御本尊)



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