|
||||
1522年(室町時代)上野国碓氷郡秋間(現群馬県安中市秋間)の桂昌寺第三世夫山総田が当宗派布教の為、信濃路を遊行したとき、当山開基屋代越中守政国に寄遇し総田と参禅問答をし、いたく共鳴するところあり、この縁により一重山山麓の埴科郡小島村(現長野県更埴市小島)の地に伽藍建立をし総田を開山、政国を開基とし、日本曹洞宗の禅寺を開いた。 |
||||
|
||||
■満照寺の赤椀 満照寺は御天領であったことから、時の加賀の前田公も参勤交代のおり、当山へ立ち寄ることもしばしば、江戸中期から後期にかけての逸話である。 前田公も御天領には馬・駕籠に乗っては入られぬ、御天領域は徒歩にて夏の暑いさなか歩かれた、ようやくたどり着いた満照寺にて一休み、時の和尚はなにを血迷ったか百万石の殿様に「夏の炬燵」をさしあげた、どうぞ殿様、この炬燵にお入り下さい。 御天領和尚の言うこと聞かねばならぬと、半信半疑、足を炬燵に差し入れた、ところが昔の炬燵は堀炬燵、なんと涼しく長旅の足の疲れも吹き飛んだ、布団を捲り灰を覗けば真っ赤な炎が見えている、よくよく見ると、そこには朱塗りのお椀が伏せてあり、頓知のきいたこの計らいに偉く御満悦にて江戸に向かわれた。その計らいは、江戸にて広まり、信州信濃の満照寺、「ぬるい炬燵は満照寺」として世間に紹介された。 今も当山所蔵の「明日山満照寺之景」には炬燵岩なる地名が書かれている。 ■佐久間象山の大砲 偉人、佐久間象山は嘉永四(1851)年、生萱村より大砲の試射を行った、なんと玉は飛び過ぎ、田を越え、山を越え、御天領の満照寺山麓に着弾、時の和尚と名主は、一大事件とばかり坂城(寝ずみ)の(現ねずみ)代官所へ持ち込んだ、偉人象山先生もこのときばかりは驚いたことは隠せない。 |
||||
|
||||
・本尊 宝冠釈迦如来 ・仏祖命脈証契 ・三尊十六弟子絹地彩画 ・十六羅漢紙地彩画 ・達磨大師像紙地墨画 ・高祖曼陀羅御一代四幅 ・仏祖誕生仏・涅槃仏二幅 ・大雄殿号額 ・信濃之国神社系譜 ・掛け軸・書状 |
冠をかぶった釈迦像 機曇英鑑より総田が授かった釈迦無尼仏より続く血脈であり、 耳からとった血で綿々と書かれている。 筆者不明 筆者不明 狩野永琳 臨江斎 臨江斎 隠元 日本黄檗宗開祖 作者不明 多数 |
釈迦牟尼佛座像 (満照寺御本尊) |